基本的に、人は他人と本当の意味では分かり合えないと思っている。本質的に人は皆孤独ということになり、人類にとって絶望と言える。
仮に他人と本当の意味で分かり合えるとしたら、それには徹底的な自己犠牲・利他的行動が必要だという気がしている。
TVアニメ『ユリ熊嵐』(2015)で描かれたように、断絶の壁を乗り越えて2人が本当に分かり合うには、自分を捨てて徹底的な利他的行動を取らなければならない。
実際、徹底的に利他的な行動を見ると本当に感動するし、これは人類にとって希望だと言える。
その一方で、絶対に他人と分かり合えることなく死んでいく人も大勢いるわけで、これは絶望だ。そして自分が属するのはこちら側だろうとも思う。
矛盾するようだが、人が本当には分かり合えないとしても、共に生きていくことは可能だと信じている。映画『メトロポリス』(1927)のラストで資本家と労働者が手を結んだように。そしてこの協調を実現させたのは、主人公フレーダーのやはり徹底的な利他的行動であることは興味深い。
人が本当の意味では分かり合えないとしても、他人の心身を傷つけたり、国家間で殺し合ったりする必要は無いし、これらを退け、共に生きていくことはできるはずだと思う。
徹底的な利他的行動によって人は分かり合えるかもしれないし、そうでなかったとしても、共に行きていくことはできると信じている。
しかし…、「人は分かり合えず孤独」という話を推し進めるとより深刻な問題に直面する。黒沢清の映画『回路』(2001)で描かれる生死と孤独。これは本当に根が深い…。