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職業としての学問(マックス・ヴェーバー)

以前読んだことある気がするので実は再読かも知れません。

要約

  • 学問、科学の進展による主知主義的な合理化は神(宗教)を殺し、人々が拠り所とする統一的な価値判断基準(価値観)、信仰が失われた
  • 学問それ自体は(かつての)宗教のように信奉すべき統一的な価値観を与えてはくれない
  • それぞれの学問は、それぞれの前提となる価値観(比喩的に「神」と言える)を持つ
  • 学問を教える教師は、政治的信条などの価値観を学生に押し付ける指導者や扇動者ではない(であってはならない)
  • 指導者として価値観を説くなら街頭などでやれ。そこでは批判を受けられるから
  • 教室という空間で教師が価値観を押し付けると学生は批判できない(するのが難しい)ので駄目
  • (老ミルは言いました。)現代は多神教!(多種多様な価値観が相互に複雑に絡み合って存在し、統一的な見解が存在しない状態の比喩)
  • 学問にできることとその限界
    1. 実生活に役立つ技術的な知識を与えること
    2. ものごとの考え方、(論理的)思考法を与えること
    3. 明確さと責任感を与えること。ある価値観の立場を取ることが何を意味するのかについて明確な説明を与え、その価値観を遂行するために必要な手段を与える。また、その価値観を遂行することにより他の価値観をどのように毀損するかも明確にし、その価値観の立場を取ることの責任感も与える
  • 学問はどのような価値観を信奉すれば良いかについて答えを与えない。多様な価値観が複雑に絡み合いながら渦巻く中で、自らそれらの価値判断に向き合わなければならない
  • それが耐えられないなら、明確な価値判断基準、価値観を与えてくれる温かい教会に帰るべき
  • 結論:浮かれずに目の前の仕事を真面目にこなせ!

余談

本書の内容とは乖離しますが、強引に個人的な関心事に引き付けて考えてみます。

自分自身は学問的、科学的、主知主義的な合理的思考から逃れられないのと同時に、科学が明らかにする「現実」のつまらなさに絶望しています。幽霊やネッシーが実在して、超能力でスプーンは曲げられ、地球は平らで、そしてなにより神が存在するような世界であったらどんなに良いかと思わずにいられないのです。つまるところ、神を信じたいが信じられないのです(だって神を筆頭にこれらを信じるに足る合理的、科学的根拠が全然ないので。当たり前ですが 1)。

神がいなくても精神的になんら困らない、または、科学を放棄して無心で神を信じられる、のどちらにもなれないということです。

といった悩みに対して本書は回答を与えてはくれませんが、自分のこのような思考をある側面から分析する一助にはなった気がします。

P.S.

人々の心が大戦後の動揺と既存の秩序にたいする疑惑に満ちていたその当時、感受性に富む青年たちの心がこうした時代の風潮の支配下にあったことは想像にかたくない。

ウェーバーがこの講演のなかで当面しているものによく似た事態が現代の日本にもみいだされるということ、したがってこの書物がすくなくも一部の人々にはなんらかの反省の機会をつくるであろうということ、このことはここに確言しうると思うのである。

(一九三六年五月、訳者記)

時期がちょっと怖い 😨


  1. というか、信仰に合理的根拠を求める発想自体が邪道で、疑問を持たず無心で信仰すること自体が宗教的態度そのものなのかも知れません。そしてそれは自分には到底無理という話です。