本書は、三島由紀夫による山本常朝『葉隠(葉隠聞書)』の入門書です。
武士道といふは、死ぬ事と見付けたり
二者択一を迫られたとき、ぜったいに正しいほうをえらぶということは、たいへんにむずかしい。人はだれでも、死ぬよりは生きるほうがよいに決まっている。となれば、多かれすくなかれ、生きるほうに理屈が多くつくことになるのは当然のことだ。生きるほうをえらんだとして、それがもし失敗に終わってなお生きているとすれば、腰抜けとそしられるだけだろう。このへんがむずかしいところだ。
ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じて死んだとしても、それは犬死、気ちがいだとそしられようと、恥にはならない。これが、つまりは武士道の本質なのだ。
恥というものを絶対に避けるべきものとして捉え、恥をかくぐらいなら犬死(無駄な死)であれ、死んだ方がマシであるという価値観が論じられます。人が生きるか死ぬかの二者択一を迫られたとき、理屈、損得、打算ではなく、自由意志によりあえて死の方を選択するという価値観、ここに葉隠(武士道)の美学があるのだと思いました。
生というのは、プラグマティズム(実用主義)的、エピクロス(快楽主義)的、論理、損得、打算の世界と捉えられているように思います。一方、死の世界ではこれらの論理が必ずしも通用しません。
もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじないわけにいくであろうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。
西洋的な生の哲学がどう生きるべきかを論じた思想であるならば、葉隠はどう死ぬべきかを論じた思想と言えるでしょう。しかしそれだと現実には実践の不可能な机上の空論になってしまいそうなところ、葉隠の面白いところは、プラグマティズム、エピクロス的な生の哲学やハウツーにも触れている点です。
常朝は、たまたまこのようなプラクティカルな教訓を与えるときには、じつに平然と矛盾をおかすのである。そこにまた「葉隠」という本のふしぎな魅力がある。
具体的には会議前の根回しの重要性からあくびを我慢する方法なんてものもあり、なかなか面白いです。
最後に、現代人が葉隠を読む上で注意すべき点として男女の問題があります。葉隠を文字どおりに読むと極めて男尊女卑的な記述が目立ちます。これは、武士=男という前提が大きな要因になっていると思います。しかし普通に考えて、葉隠(武士道)的な精神性を持つのが男性だけというのは極めて考えにくく、葉隠的な精神性を持つ女性というのも普通にあり得るでしょう。つまり現代人が本書を読む際には、「男」を「武士」、「女」を「非武士」と読み替えて読むとよいのではないかと思います。