Blufflog

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2025 年映画ベスト

1. パシフィック・リムギレルモ・デル・トロ、2013)

開始数秒で泣きそうになるほど感動し、傑作を確信。期待したものすべてで期待を上回ってきました。
トランスフォーマーバトルシップも好きですが、パシフィック・リムはより本物を感じました。

2. DASHCAM ダッシュカム(ロブ・サヴェッジ、2021)

正しさより気合いと生命力で勝負する最高の映画。

3. サブスタンス(コラリー・ファルジャ、2024)

個人的に好きなジャンルの映画が自分好みの過剰演出で作られている上、完成度も高くて本当に楽しかったです。
ただ、期待を圧倒的に上回る何かや既存の価値観を揺さぶるような何かはなく、歴史的大傑作になるには一歩足りないとも感じました。

4. エディントンへようこそ(アリ・アスター、2025)

コメディー的な感覚?笑いのツボ?が近いのか、なぜかすごく良かったです。

5. アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方(アリ・アッバシ、2024)

エンタメとしての完成度が高く楽しめました。

6. V/H/S ビヨンド(2024)

安定して楽しい。特に『Stowaway』が詩的・幻想的でお気に入りです。
1 本目の『Stork』も特殊部隊の突撃作戦ということで、ホラー版『ザ・レイド』といった感じで大いにアガります。終わり方も最高すぎる。

7. 肉体の悪魔ケン・ラッセル、1971)

美術や構図が美しい。全体的に勢いがあり、乱交的描写も豪奢で楽しい。

8. Cloud クラウド黒沢清、2024)

しょうもない出発点からどんどん遠くまで連れて行ってくれるドライブ感が楽しい。

9. 近畿地方のある場所について(白石晃士、2025)

ニコ生配信的な首吊り屋敷への潜入映像がかなり怖くて特に良かったです。ただ残念ながら、全体的にはこれまでの白石作品を超えるようなところは感じられませんでした。もちろん白石監督の過去作が偉大すぎるということはありますが。


Filmarks で鑑賞記録を付けたりレビューを書いたりしています。よければこちらもどうぞ。

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エディントンへようこそ(Eddington)

アリ・アスター監督最新作『エディントンへようこそ』(Eddington)を観ました。

舞台はアメリカ南西部ニューメキシコ州の架空の町エディントン。時期は 2020 年、COVID-19 パンデミック真っ最中です。保安官ジョーは、マスクするしないの揉めごとをきっかけとして市長選に立候補。その後色々あってジョーとその周りの人々が大変な目に遭うという大変愉快な映画です。

本作を含め、アリ・アスター監督の劇場長編映画はこれまでに 4 作あり、自分はすべて映画館で観ています。特にデビュー作の『ヘレディタリー/継承』は試写会で観て大変衝撃を受けたことをよく覚えています。

自分がこれまで観てきた印象からすると、アリ・アスター監督作品は、少なくとも一見するとすべて全然違うタイプの映画に見えます。なので作品によって好みが分かれそうなものですが、不思議なことに自分の場合、どれも非常に強く刺さっています。
ということは、これらの作品に通底する何らかの共通項があるのかもしれません。ただ、それが何なのか今のところ自分は分からず、なぜアリ・アスター監督作品に惹かれるのかうまく表現できないというのが正直なところです。

『エディントンへようこそ』の話に戻りましょう。自分は、些細なことからどんどん事態が大きくなっていく話が大好きです。たとえば『ビッグ・リボウスキ』や、最近だと黒沢清監督の『Cloud クラウド』など。これに偏執狂(パラノイア)的な要素が加わった『アンダー・ザ・シルバーレイク』は特にお気に入りで、本作と通底する要素もあるように思います。ただ、アンダー・ザ・シルバーレイクの方がより偏執狂的な領域に深く入り込んでいく感じが好きではあるのですが。エディントンはもう少し客観的で冷たい感じです。そしてこの冷たさはアリ・アスター監督の作家性かもしれません。

個人的には本作を非常に面白く観たのですが、COVID-19 の感染対策や BLM (Black Lives Matter) 運動などを茶化している(冷笑している)ように見える部分もあり、真面目に見るとここはいただけないという評価も当然あり得ます。個人的にはこの辺り(倫理と表現など)は分離して考えがちなので完全に他人事として楽しんでしまいましたが、鑑賞者の価値観や状況によって受け取り方は当然様々でしょう。

いずれにせよ個人的には非常に楽しめたので、アリ・アスター監督の次回作も大いに期待して待ちたいと思います。

秘儀(マリアーナ・エンリケス)

マリアーナ・エンリケス『秘儀』を読みました。
「闇」を崇拝するカルト集団である「教団」と、そこから逃れようともがく父子を中心とする人間模様が描かれるホラー小説です。

基本的には悪魔崇拝・黒魔術的なオカルトホラーではあるのですが、ヨーロッパのオカルティズムだけでなく南米の土着信仰が融合した上でクトゥルフ神話的ともいえる世界観が描かれている点が独創的です。

世の中の作品には、ホラー、オカルトの要素がありつつ、本質的には人間ドラマしか描いていないものも少なくありません。そのような作品を鑑賞すると、「この作り手は本当はホラーに興味ないのでは?」と思ってしまいます。一方、本作は人間ドラマを中心としつつも、ホラー、オカルト自体にもかなり力点が置かれていてよかったです。ただ、人間ドラマとホラー、オカルト要素の両方がしっかり描かれているので重厚ではあるものの、オカルトホラーというジャンル小説としては、純粋にエンタメとして楽しみづらい面はあるかもしれません。

人間ドラマとオカルトホラーという主軸に加え、幅広い要素が重層的に組み合わさっているのも本作の魅力です。
「闇」の崇拝とヒッピーカルチャーや神秘主義の交流。搾取者としての「教団」、富裕層、アルゼンチン独裁政権の繋がりと類似性。「教団」の犠牲者と独裁政権下の「行方不明者」など…。
1960 年代以降のアルゼンチンとロンドンを舞台に、複数人の視点で物語が展開します。やや詰め込みすぎではあるものの意欲的で、個人的にはこのように高密度な作品は大好物です。

本作では少年・少女たちが主役となるパートもあります。子供時代にトラウマを負った友人たちが成長してから集結して過去のトラウマである怪異に立ち向かう、という熱い展開も頭をよぎりましたが、その方向へは向かわずドライな結末に収束していきます。ただ、よくよく考えると、このような熱い展開はこの小説全体のトーンにはあまり合わないので自然な帰結ではあります。
本作の結末はミニマムで美しい一方、広げた風呂敷に対して小さくまとまりすぎている感はあります。また、フアンの息子ガスパルが「教団」に立ち向かう方法もあまりひねりがなく、説明的かつ受け身で、なんなら父親のフアン自身でその作戦を遂行できたのでは?とも思えてしまい、この辺りは微妙でした。

しかし全体としては、重厚なオカルトホラー小説としてとても楽しめましたし、大変刺激も受けました。このような作品が日本語で読めるのは幸運なことですし、ぜひ読んでみてください。

種明かしはマジックの不思議さを楽しむ機会を観客から奪うから悪いのか?

かなり限定的なテーマについて、極めて個人的な意見を述べます。

今回は、「種明かしはマジックの不思議さを楽しむ機会を観客から奪うから悪いのか?」という問いに回答したいと思います。気のせいかもしれませんが、マジシャン、ノンマジシャン問わずこのような意見をおっしゃる方を見かけることがある気がします。

結論からいうと、この問いに対する自分の回答は「いいえ」です。

自分の感覚では、マジックを観た観客は、そのマジックの種を知りたいと感じるのが自然だと思います。もちろん性格や好みは人それぞれなので、種を知るより不思議を楽しみたいと心から思う観客もいるでしょう。しかし、これはあくまで自分の肌感覚ということを強調しますが、不思議さを楽しみたい気持ちより種を知りたい好奇心が強いという感覚の方が一般的だと思います。少なくとも、最初から種を知りたいとは思わないが、まずマジックの演技を見て不思議さを味わった後は、種を知って自分が見た現象について納得したい、という感覚を持つ人はかなり多いのではないでしょうか。

仮にこのような感覚が一般的だと仮定します。ここであるマジシャンが、「種明かしはマジックの不思議さを楽しむ機会を観客から奪うから悪い」と主張したとします。
これは一見、観客のためを思った意見に見えます。しかし仮に、観客は不思議さより種を知りたい気持ちの方が強いのだとすると、この意見は観客のためになっていないかもしれません。
また、まずは演技を普通に見て不思議さを味わった後で、種を知って好奇心を満たしたい、という観客がいたとします。もし、この観客がマジックの演技を見る前に種明かしに触れてしまうと、この観客が不思議さを楽しむ機会が奪われることになります。しかし、この観客がマジックの演技を見た(不思議を味わった)後であれば、この観客に対する種明かしはこの観客から楽しみを奪うことにはなりません。

よって自分は、種明かしはマジックの不思議さを楽しむ機会を観客から奪うから悪いとはいえないと考えます。種明かしが悪いという主張については肯定も否定もしません。しかし、種明かしが悪いという主張の根拠として、観客の不思議さを奪うという点を挙げるのは適切ではないと考えます。

マジックの不思議さを観客から奪うという点を種明かしが悪いことの根拠に使えないとすると、どのような根拠であれば種明かしが悪いと主張できるのでしょうか?あるいは、そもそも種明かしは別に悪いことではないのでしょうか?

これらの問いに明確に答えるのは難しい面もあるのですが、少なくとも自分は種明かしをしたいとは思いません。しかしその理由は、観客が不思議さを楽しむ機会を守るため、のような、観客を慮ったものではありません。自分が種明かしをしたくないのは、種を知りたいという観客の気持ちより、不思議さを他人にぶつけたい(不思議さで他人を殴りたい)という暴力的で自己中心的な欲求を優先したいからです。

先述のとおり、観客の気持ちを素直に慮ると、種を知りたい観客には種明かしをするのが親切ということになりかねません。しかし、種明かしをしないマジシャンというのは不思議さを押し付けるだけ押し付けて、不親切にも種を明かさずに去ってしまいます。そして、それで構わないのだと思います。このようなある種の押し付けというのは、マジックに限らずあらゆる表現にとって極めて重要なものです。逆に、顧客や観客のニーズ(要望)に応じる代わりに美学や思想などを押し付けない表現は、資本主義・市場経済における商品としての価値は高いかもしれませんが、表現としての価値は非常に低いでしょう。マジックの種明かしがメディアにおいて PV や視聴率を稼げるのもこれに由来すると思います。

種明かしでない部分のマジックの価値を信じる者としては、種を知りたいという観客の声に耳を傾けることなく、ただひたすらに不思議さで観客を圧倒していくことを目指すべきだと思います。

Mac で Windows 用 US(英字)配列キーボードをいい感じに使う方法

ほぼ個人的な備忘録です。

方法

  1. Karabiner-Elements をインストール
  2. ファンクションキーを単独で機能するよう設定
    1. システム環境設定を開く
    2. キーボード → キーボードショートカット → ファンクションキー
    3. 「F1、F2 などのキーを標準のファンクションキーとして使用」をオンにする
  3. Windows 用配列を Mac 用配列に近付ける
    1. Karabiner-Elements の Simple Modifications タブを開く
    2. 設定したい Windows 配列キーボードを選択
    3. 次のようにキーマップを設定
      • left_command → left_option
      • left_option → left_command
      • right_command → right_option
      • right_option → right_command
      • (任意)f10 → mute
      • (任意)f11 → volume_decrement
      • (任意)f12 → volume_increment
  4. CapsLock を Control キーに変更
    1. Karabiner-Elements の Simple Modifications タブを開く
    2. For all devices を選択
    3. caps_lock → left_control と設定
  5. 左右それぞれの Windows(⌘)キーを単独で押下したとき、IME の英数とかなを切り替えるよう設定
    1. Karabiner-Elements の Complex Modifications タブを開く
    2. 「Add predefined rule」ボタン押下
    3. 「コマンドキーを単体で押したときに、英数・かなキーを送信する。(左コマンドキーは英数、右コマンドキーはかな)」を enable にする(有効にする)

自分の環境

解説

  • Windows キーボード固有の設定(Windows 配列を Mac 配列にリマップ)と、全キーボード共通の設定(CapsLock → Ctrl、⌘で英数かな切替)という 2 つの観点に分けて設定しています。この 2 つの設定を分離しておくことで、Windows 用外部キーボード以外に、US 配列の MacBook 本体内蔵キーボードや Mac 配列の外部キーボードを使用した際にも CapsLock → Ctrl 変更などを自動的に適用できて便利です
  • macOS 標準のキーボード設定でも CapsLock を Control にリマップすることなどはできるのですが、Karabiner-Elements はこれを推奨していないようです。実際、macOS の機能でキーマップを変更すると Karabiner-Elements 起動時にエラーが表示されます。なので、キーマップ設定は Karabiner-Elements に集約するのがよさそうです
  • 自分の環境では、なぜか Fn キー+F1 キーなどで標準の F1 キー相当の機能が動作しませんでした。なのでファンクションキーを単独で機能するよう設定していますが、環境によってはこの設定は不要かもしれません。その場合、Karabiner-Elements におけるファンクションキーのリマップも不要になると思います
  • 自分はファンクションキーによる音量操作をよく使うのでこれらのキーマップを設定していますが、これをあまり使わない、あるいは他の方法で音量を操作する方は、これらの設定は不要です

おわりに

もしかすると(もしかしなくても)、Karabiner-Elements の設定を JSON ファイルなどとしてエクスポート・インポートするようなことができるかもしれません。それができる場合、この設定ファイルを dotfiles リポジトリに追加しておくともっといい感じになりそうです。

マジックは現象の発生確率が低いほど不思議なのか?

マジックは現象の発生確率が低いほど不思議なのか?という問いを中心に、マジックと確率の関係について考えてみます。

ACAAN の確率

Any Card At Any Number (ACAAN) という有名なマジックの現象(プロット)があります。この現象は、ある観客の言ったカードが、他の観客の言った枚数目から出現するというものです。

そして、この現象が偶然に成立する確率は 1/52 です。たとえば観客 A の言ったカードがハートの Q で、デックの中でこのカードがたまたま上から 11 枚目にあったとします。ここで、観客 B が 1 から 52 の中で 11 を言った場合に現象が成立します。よって、この現象が起きる確率は 1/52 となります。当然、観客 A が他のカードを言った場合も、それぞれについて現象が成立する数字は常に 52 個の内の 1 つです。観客 B が先に数字を言ったとしても、その数字に対して現象を成立させるカードは常に 52 枚中 1 枚のため、同様に確率は 1/52 となります。

選択肢がカードと数字の 2 つあるので、現象の偶然起きる確率が 1/52 × 1/52 = 1/2704 と勘違いする人がいる、という噂もある(?)ようです。しかし先述のとおり、ACAAN が偶然成立する確率は 1/52 が正解となります。

カード当ての確率

ここで、単純なカード当てが偶然に成功する確率を考えてみましょう。なお、ここで想定するカード当ての現象は次のとおりです。

デックから観客が 1 枚のカードを引いて覚えます。そのカードはデックに戻され、演者あるいは観客自身によってデックがシャッフルされます。そして最後に、演者は観客が選んだカードを当ててしまいます。

演者が完全に当てずっぽうで観客のカードを当てにいった場合、それが成功する確率は当然 1/52 です。つまり、カード当てが偶然に成功する確率は 1/52 で、ACAAN が偶然成立する確率と完全に同じということになります。

ACAAN の不思議さはカード当ての不思議さと同じ?

特にマニアに顕著ですが、マジシャンは ACAAN を一種の聖杯と捉え、ACAAN の現象を達成することに異様な執着を見せています。しかし、ACAAN とカード当ての現象発生確率が同じだとすると、ACAAN は本質的にはよくあるカード当てと大差はなく、その不思議さも同じなのではないか?という疑問が生じるかもしれません。現象発生確率の同じ ACAAN とカード当ての不思議さが同じという仮説は、現象発生確率が低いほどマジックは不思議であるということを前提としているはずです。そこで、この点についてもう少し考えてみましょう。

現象の発生確率が低いほどマジックは不思議なのか?

マジックの不思議さを定量的に評価することはなかなか難しいため、現象発生確率のように定量的な指標でマジックの不思議さを評価できるとしたら、それは興味深い話です。しかしこのような評価は本当に妥当なのでしょうか?

まず個人的な直感としては、確率の低さとマジックの不思議さにはそこまで大きな関係はないと感じます。また、単純なカード当てと ACAAN の現象発生確率が同じだとしても、その効果には有意に差があると感じます。多くのマジシャンが ACAAN という「聖杯」にこれほどまでに取り憑かれている点について、マジシャンが ACAAN を過大評価している面がないとは言いませんが、単にそれだけではないとも感じます。

まず、マジックを観た観客がどこに不思議さを感じるかを想像してみましょう。仮に観客が、マジシャンが運否天賦でカード当てや ACAAN を演じていると思っているのだとしたら、確かにこれらの現象の不思議さは、その現象が偶然発生する確率に大きく依存するでしょう。そしてカード当てと ACAAN の現象発生確率が同じということを観客が無意識的にでも理解していたとすれば、これら 2 つのマジックの不思議さはほぼ同じに感じられる可能性は十分あります。

しかし実際のところ、観客はマジックをそのようには解釈していないと思います。観客は、「マジシャンは、確実かつ再現性のある何らかの巧妙な方法によってマジックの現象を成立させている」と理解していると考えるのが自然でしょう。その場合、マジックが偶然発生する確率の低さより、マジシャンがその現象を確実に再現する難易度や不可能性の高さの方が不思議さに寄与するように思います。

たとえば、観客の左右どちらの手に小物が握られているかを演者が当てる Which Hand のように現象発生確率が高い現象であっても、演者が確信を持ってこれを言い当て、しかもその手法(タネ)が皆目見当つかないとなれば、これは十分不思議に感じられるでしょう。反対にどんなに現象発生確率の低い現象であっても、その手法を観客がある程度推測できるようなマジックであれば、さほど不思議には感じられないと思います。カード当て 1 つ取っても、観客がカードを引き、演者がデックを混ぜ、観客のカードを当てるものと、観客が頭で思い浮かべただけのカードを演者が言い当てるものとでは、これらの現象を演者が再現する難易度が大きく異なることは観客も感じるでしょうし、実情もそのとおりです。そもそもマジックの不思議さを構成する要素は確率だけではないでしょうし、面白さなどを含めたマジックの効果全体を構成する要素となればなおさらです。

もちろん、単純な Which Hand を 1 回演じただけでは偶然を疑われてしまうことも十分あり得ます。このような場合は左右を当てるだけでなく、その中身(観客が握っている品物についての情報)を当てたり、同じ現象を何度か繰り返すなどの工夫は必要になるでしょう。つまり、確率はマジックの不思議さと完全に無関係とはいえないものの、マジックの不思議さを構成する一要素に過ぎず、「現象の発生確率が低いほどマジックが不思議とは必ずしもいえない」というのが自分の暫定的な結論です。

現象発生確率の低さが重要なマジック

せっかくなのでマジックと確率の関係についてもう少し考えてみましょう。直前に、現象発生確率が低いほどマジックは不思議だとは必ずしもいえない、と結論しました。加えて言うと、現象発生確率の低さが不思議さに寄与しやすいマジックとそうでないマジックがあると自分は考えています。ここで、現象発生確率がマジックの不思議さに影響を与えやすいのはどのようなマジックでしょうか?結論からいうと、マジックの現象を演者がどの程度主体的に起こしたように見えるか、という点に大きく依存すると考えています。

たとえばカード当てでは、演者が観客のカードを探す(当てる)ので、かなりの程度、演者が主体的にマジックの現象を起こしているように見えます。つまり、そこでは観客の選択に大きな意味はなく、演者はカードを当てる何かしらの確実な手法を使っている、と観客は解釈するでしょう。その結果、たとえば 52 枚のトランプから 1 枚のカードを演者が当てるマジックと、5 枚の ESP カードから 1 枚のシンボル(カード)を演者が当てるマジックでは、その確率差ほどには不思議さに違いがないと考えられます。

一方 ACAAN では、2 人の観客それぞれがカードと数字を指定し、演者はほとんど何もしないように見えます。その結果、観客の選択によって現象が成立するかどうかが決まってくるように見えます。この場合、選択の範囲(1 から 52 すべての数字から選ぶのか、特定の範囲の数字から選ぶのか)や、選択方法の公平さ(自由に名前を言うだけか、紙に書いたりする必要があるのか)などによって、観客が感じる不思議さも変わってくるように思います。たとえば 52 枚のトランプでの ACAAN と、5 枚の ESP カードでの同様の現象では、52 枚のトランプでの ACAAN の方が有意に不思議と感じられるのではないでしょうか。つまり、カード当てよりも ACAAN 的現象の方が、現象発生確率の重要性が増すということです。より一般的にいうと、演者が主体的に現象を起こしにいかないような演出・現象のマジックほど、その現象発生確率の低さが不思議さに与える影響が大きいということです。

また、ACAAN では現象発生確率が不思議さに寄与しやすいとすると、その確率が実際よりも低く誤解されやすいという先述の点も ACAAN の不思議さに有利に働くといえそうです。

まとめ

マジックは現象の発生確率が低いほど不思議なのか?という問いに対しては、一概にそうとはいえず、むしろ多くの場合で確率はあまり関係ないと考えている、というのが回答です。ただし、演者が主体的に現象を起こしにいかないような演出・現象のマジックでは、相対的に現象の発生確率が重要になるとも考えています。