市場をうまく機能させるプラットフォームは,次の 5 つの要素を備えている.情報が円滑に流れること.財産権が保護されていること.人々が約束を守ると信頼できること.第三者に対する副次的影響が抑えられていること.そして競争が促進されていることである.
(p. vi)
ジョン・マクミラン著『新版 市場を創る バザールからネット取引まで』(Reinventing the Bazaar)を読みました。
本書は世界中の市場の豊富な事例を通して現代経済学を幅広く学べる入門書です。
アールスメール花市場(オランダ)に始まり、ガーナのマコラマーケット、築地市場、eBay など、洋の東西やオフライン・オンラインなどを問わず、数多くの市場が紹介されます。
このように本書は経済学という観点だけでなく、近現代における経済活動の人類史といった観点でも面白い読み物となっています。
市場というと、弱肉強食で格差を拡大する悪の装置というイメージを持つ人も恐らく少なくないでしょうし、そのような面があることは間違いではないでしょう。しかし、市場(バザール)は人々が活動していけば自然に発生しますし、健全な市場には人々の活気や創造性があることも忘れてはならないでしょう。
本書で解説される経済学は古典的な需要・供給曲線的な理論だけでなく、ゲーム理論を取り入れた現代的で実践的な経済学となっています。
しかも本書では経済理論の解説に数式が一切登場しません。あくまで具体的な事例を基に理論の本質を学べる構成になっています。
さて、本書の主張を要約すると次のようになります。
市場を一切用いない計画経済(社会主義)と、完全に市場に任せる放任主義のどちらでも経済はうまく機能しない。ボトムアップによる何らかのルールや規制が自然発生的に生まれ、それにより市場がうまく機能することもあるが、このような「非公式」のルールや規制には限界がある。よって、政府など中央集権的な組織が市場に介入し、立法などによりルールや規制を設けることが必要である。そして、どのようなルールや規制をどの程度の強さで設けるかという設計が非常に重要であり、これが市場を創ること(マーケットデザイン)に他ならない。
そして市場をうまく設計するには、最初に引用した 5 つの要素が必要ということになります。
その中でも特に強調されていると感じたのは情報の重要性です。つまり、市場の参加者それぞれが、信頼できる情報を低コストで入手できることが重要です。情報を入手するコストや入手した情報の信頼性を検証するコストが大きいと、スムーズな取引ができず、市場がうまく機能しません。言い換えると、市場における取引費用を低く抑えることが重要ということになります。
市場における情報の流通と深い関係にあるのが IT/コンピューター技術です。
インターネットの普及により、eBay のようにグローバル、高速、低コストな市場が創出されました。
また、コンピューターの普及により、大量のパラメーターを基に複雑な計算を行うオークションなども可能になりました。そして、このようなオークションをオンライン化することさえ可能です。
市場によって成り立つ資本主義の対極に、計画経済によって成り立つ社会主義があります。そして、計画経済がうまくいかない理由にも情報が深く関係します。
中央集権的な計画経済において、仮に中央指導部に悪意がなく、腐敗しておらず、非常に有能であったとしても、末端の現場に分散している情報や知識を中央が集約・統合し、人々の需要を予測することは非常に困難です。同様に、中央の官僚等が各企業の生産性を評価することも非常に困難でしょう。市場であれば、質の低い商品は自然に売れなくなり価格が調整されますが、品質なども踏まえた生産性について、計画経済下の官僚が妥当な評価を下すことは非常に難しいでしょう。
さらに実際には、社会主義・計画経済がうまく機能するのはより困難であると考えられます。計画経済では中央組織が強い権限を持つ必要がありますが、中央指導部の腐敗や官僚への賄賂などが構造的に横行しやすいと考えられます。よって、そもそもが困難な計画経済はより厳しいものとなるでしょう。
さて、市場というのは自由競争による価格決定ゲームとも捉えられ、オークションも市場の一種といえます。本書ではオークションについてもいくつかの事例が紹介されています。
その中でも特に、アメリカの電波周波数帯オークションで使われた同時上昇オークションについては著者自身が関わっていたということもあり、詳細に解説されています。これは複数のオークション対象商品の価値が相互に依存しており、独立性が低い場合に有効な手法という感じでした。
また、封印入札の一種であるヴィックリー・オークション(第二価格オークション)も紹介されます。本書では軽く触れていただけですが、以前に読んだ『マスタリング・イーサリアム』ではこのオークションがより具体的に紹介されていました。このオークションの基本的な特徴は、提示された最高額でなく 2 位の価格を使うことによるゲーム理論的な最適化です。それだけでなく、オークションの各参加者が入札価格を封印し、後でまとめて開示できるため、ブロックチェーンのように秘密鍵以外のすべてが公開されているプラットフォームとの相性も良いオークションといえます。
シグナリングの話も自分は知らなかったので新しい視点を得られました。企業が有名人などを雇い、本質的にはあまり意味のなさそうな広告を打つのもシグナリングとして捉えると意味が見えてきます。そして、自然界の動物についてのアナロジーも面白いです。単純な機能面では不合理で奇妙に見える動物の進化も、シグナリングとして考えると理解できます。もしかすると、ハイブランドの服飾品を身に付ける人の心理もシグナリングで説明できる面があるかもしれません。
アメリカの医療インターン労働市場(病院と学生の関係)における青田買い的な引き抜き合戦をコンピューターによるマッチングシステムで(部分的に)解決した事例は、日本の就活を考える上でも参考になりそうです。
また、近年発展著しい AI (Artificial Intelligence) と市場経済には類似性があるように思います。
市場経済では、基本的に中央集権的組織が細部まで制御せず、市場に参加する末端の人々それぞれが自己利益を最大化しようと合理的に動きます。その結果、市場全体で見ると資源が効率的に流れ、社会全体の生産性が上がっていきます。このようなボトムアップ的な改善は、近年飛躍的な進歩を遂げた AI の学習方法にも通ずるところがあるように思います。
ディープラーニングおよびその延長にある生成 AI(LLM)の仕組みは、天才がトップダウンで考えた天才的な AI アルゴリズム(プログラム)そのものではありません。AI の実体はモデルであり、これは膨大な数値(パラメーター)を羅列した行列表現です。そして、この膨大なパラメーターを学習させる枠組み(Transformer、アテンション機構、バックプロパゲーション、勾配降下法など)までを人間が考え、その枠組みの上で膨大な計算資源(半導体)、電気、データ、時間を投入し、コンピューター自身に自動学習させます。これによりボトムアップ的にモデルのパラメーターが最適化されていき、どんな天才でも作れなかったほどに賢い AI が生まれました。
賢い中央がトップダウンで制御するのではなく、個々の要素の単純な働きの集合によりボトムアップで全体として非常に賢く振る舞うというのは、AI と市場で共通しているように感じます。これはまさに複雑系の世界ともいえるでしょう。
全体的に、本書は公平な立場で書かれているように思います。ただ、原著の出版年 2002 年はリーマン・ショック(金融危機)前であり、ネオリベラリズム(新自由主義)が力を持っていたように思います。偏っているとまでは思いませんが、本書の主張はネオリベラリズムとある程度は親和性があるようにも感じます。仮にそうだとして良くないとも思いませんが、この辺りは留意してもよさそうです。
本書では自然環境などいわゆる「社会的共通資本」に対する負の外部性(取引に伴うネガティブな副作用)や経済格差などの問題にも触れており、特に環境問題については排出権取引という具体的な解決策も紹介されます。しかし、現実社会でこの辺りの問題が十分に解決されているとは思えず、現代経済理論の限界も感じます。もちろん、経済理論に基づく排出権取引などを活用しなかった他の世界線よりマシだったということなのかもしれませんが、いずれにせよ問題は山積しています。
経済学では資源の分配などの効率性について論じることはできますが、どの程度まで富を再分配すべきかのような問題には回答できません。この辺りは主に人々の価値観に依存するため、政治哲学や倫理の領域です。
言い換えると、絶対的な貧困が増大するとしても平等を重視して共産主義を是とする主張や、経済的な豊かさを損なうとしても自由を重視してリバタリアニズムを是とする主張は、価値観や政治哲学などの観点からは否定することが困難です。しかし、たとえば政府を小さくすればするほど経済成長するといった経済的な理由でリバタリアニズムを肯定するとしたら、それは根拠が誤っている、ということを経済学的観点から指摘することはあり得るでしょう。
本書で述べられているように、政府などが市場を適切に設計し、市場/資本主義を道具としてうまく利用できれば人類に多大な利益をもたらすでしょう。しかし問題は、人類が本当にそのように市場をうまく設計・制御できるのだろうか、という点です。あるいは、人類は市場をうまく制御できないが、それでも原理主義的な社会主義やリバタリアニズムなどよりは総合的にマシである、というのが真実なのかもしれません。だとすると夢のない話ではありますが…。
ロシアの改革はひどく不人気だった.皮肉なジョークが広まった.「共産主義者が共産主義について語ったことはすべて完全にまったくの嘘だった.しかし残念ながら,共産主義者が資本主義について言ったことはすべて本当だった.」
(p. 286)