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AI エンジニアリング(Chip Huyen)

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Chip Huyen 著、加賀谷諒、菅野憲也訳『AIエンジニアリング』を読みました。

本書では、いわゆる生成 AI (Artificial Intelligence) 自体および、生成 AI を組み込んだ IT システム開発全般について解説しています。AI 分野は変化が激しいですが、本書は全体的に普遍的で陳腐化しにくそうな内容で、具体的な研究論文などの引用も充実している点が良かったです。

なお、厳密には違いますが、本記事では Large Language Model (LLM)、Large Multimodal Model (LMM)、基盤モデル、生成 AI を大まかに同じ概念として扱います。

1章 基盤モデルを用いた AI アプリケーション開発入門

AI エンジニアリングの概要について。

2章 基盤モデルを理解する

基盤モデル(LLM)の基本的な仕組みについて。

現在の基盤モデル・生成 AI は基本的には LLM のことを指しています。LLM の代表的なアーキテクチャが Transformer であり、その核となる技術にアテンション機構(attention mechanism)があります。

素人目線では現在の LLM は、従来のディープラーニングから明らかに非連続なブレイクスルーやパラダイムシフトによって生まれたというより、研究開発を通して順当に進化を重ねていった結果のように感じられます。
もちろん詳細は全然理解していませんが、基本概念は自分のような素人でもある程度理解できるような仕組みで LLM は作られていると感じます。
抽象的な意味において、実際の推論時に AI がどのように思考(?)しているのかを理解するのは困難です。しかし、従来のディープラーニングの延長であり、ある程度理解できるような仕組みで作られた AI があれほどまでに賢く振る舞うことは非常に不思議です。

3章 評価方法論

AI モデルの性能などを評価する方法や技術について。

生成 AI の出力は、分類タスクの結果などではなく自由形式のテキストでオープンエンドです。よって、生成 AI の出力には明確な正解が存在せず評価が難しいという課題があります。本章では、このような課題に対処する方法や技術が解説されています。

4章 AI システムの評価

実際の IT システムに AI モデルを組み込む際のモデル選定方法や、AI システムの評価・改善を繰り返す評価パイプラインの設計などについて。

現在、あらゆる分野で AI を利用するようになっていますが、AI の生成物には良いものと悪いものがあります。よって AI を使う場合は、AI による生成物の良し悪しを適切な観点で評価することが極めて重要です。

AI の出力に対する評価基準としては、事実整合性、安全性、指示追従能力などがあり、これらはベンチマーク化されています。モデル選定時には用途に応じて必要なベンチマークを決め、これらのベンチマーク性能の高いモデルを選択することになります。また、モデルごとに推論・利用コスト、レイテンシー、ライセンスなども異なるため、これらを総合的に判断する必要があります。

AI モデルがますます賢くなってきている現状、その賢さや出力品質を評価することはより重要かつ難しくなっているように思います。

5章 プロンプトエンジニアリング

AI モデルへの入力テキストであるプロンプトについて。

プロンプトエンジニアリングというと、AI に入力するテキストを工夫することでモデルの出力品質を改善する小細工的な手法が思い浮かびます。
もちろんこのような手法は重要ですが、モデルの仕様変更や進化などにより陳腐化しやすく、ここに力を入れすぎるのは筋が悪そうです。
本章ではこのようなテクニックへの言及もありますが、プロンプト自体のバージョン管理やプロンプトインジェクションなどセキュリティの話が勉強になりました。

6章 RAG とエージェント

Retrieval-Augmented Generation (RAG) と AI エージェントについて。

RAG は、AI システムに Web や DB など外部リソースへの検索機能を付与し、コンテキストを拡張する技術です。
モデル内部では情報をベクトル化し、行列演算を行うため、RAG を有効に機能させる上ではベクトルデータに関する技術が特に重要そうです。

最近流行りの AI エージェントは、特定のリソースに対する読み取り、書き込み、実行などのアクセス権限を AI アプリケーションに付与することで、より自律的にコンテキストを拡張し、ファイル編集や設定変更などを含むより高度なタスクをこなせるようになるというものです。エージェントは、RAG をより一般化したようなものと捉えられるかもしれません。
基本的にモデル単体ではエージェントとして機能せず、モデルの周りにハーネスと呼ばれるソフトウェアを配置することでエージェントとして機能するようになります。そしてハーネスはコンテキスト管理、アクセス権管理、外部リソースアクセスなどの機能を担います。よって、AI エージェントではモデル単体だけでなく、ハーネスの機能や性能も全体の性能や利便性に大きく影響しそうです。

本書では触れられていませんが、Model Context Protocol (MCP) は本章の内容に関連しそうです。

7章 ファインチューニング

事前学習済みのモデルを調整するファインチューニング(事後学習の一種)について。

雑に言えば、大量のあらゆる知識を詰め込むのが事前学習で、どの知識をどのように使い、人間が扱いやすい形でどう表現するかを調整するのがファインチューニングと言えそうです。

事前学習にはとんでもない量の学習データセットと計算資源(GPU や電力など)が必要です。よって、ほとんどの人や企業にとって、モデルを学習・カスタマイズする方法としてはファインチューニングが主要な選択肢になります。
まずはプロンプトエンジニアリングを試してみて、それでもモデルの出力が要件を満たさない場合、ファインチューニングが選択肢になるイメージです。

8章 データセットエンジニアリング

モデルの学習データセットをどのように選定し、用意するかについて。

モデルの学習データセットとしては、Web 上の記事や書籍など人間が作成したもの以外に AI が生成したテキストなども使えます。後者は合成データと呼ばれ、教師モデルの出力を学習データとして生徒モデルを作る蒸留でも重要になります。

9章 推論の最適化

モデル推論時のスループットとレイテンシーを改善するために、推論の仕組みをどのように最適化するかについて。

現在主流の LLM は自己回帰言語モデルであり、推論時にプレフィルとデコードという 2 段階があります。プレフィルはチップの演算性能がボトルネックになるためコンピュートバウンド領域で、デコードはメモリから演算ユニットへのデータ転送速度がボトルネックになるためメモリバウンド領域です。

また、自己回帰言語モデルの推論では、モデルが出力したトークンを次の出力トークンを生成するための入力として再帰的に利用します。よって、出力トークンを生成していくデコードは逐次処理にならざるを得ず、出力が長くなるほどレイテンシーが増加するという原理的な弱点があります。
ただし、出力トークン生成を並列化する工夫などこの弱点を部分的に解消する手法も研究されているようで興味深いです。

10章 AI エンジニアリングのアーキテクチャとユーザーフィードバック

AI システムのアーキテクチャ設計と、ユーザーからのフィードバックを基に AI システムをどのように改善していくかについて。

生まれてこないほうが良かった:存在してしまうことの害悪(デイヴィッド・ベネター)

デイヴィッド・ベネター著、小島和男、田村宜義訳『生まれてこないほうが良かった:存在してしまうことの害悪』を読みました。

本書は反出生主義(antinatalism)についての本です。本書でベネターはいわゆる反出生主義を支持しており、その理由を説明しています。ベネターの反出生主義を要約すると、人が生み出されることは常に害悪であるため、これ以上人を生み出さない方が良いというものです。

ベネターの議論は大雑把に言って以下の通りです。

  1. X さんが存在する場合、X さんが受ける苦痛の存在は「悪い」
  2. X さんが存在する場合、X さんが受ける快楽の存在は「良い」
  3. X さんが生まれてこなければ、X さんが存在した場合に受ける苦痛は存在しない。この場合、X さんの苦痛が未然に防がれるので「良い」
  4. X さんが生まれてこなければ、X さんが存在した場合に受ける快楽は存在しない。この場合、X さんはまだ生まれておらず、誰の快楽も奪われないので「悪くはない」(良くもない)
  5. X さんが存在する場合には悪いことがあるが、生まれてこない場合に悪いことはない
  6. 以上より、人が存在してしまうことは常に害悪であり、人は生まれてくるよりは生まれてこない方が良い

ポイントは、人が生まれてこないことによる苦痛の不在は「良い」が、人が生まれてこないことによる快楽の不在は「悪くはない」という快楽と苦痛の非対称性です。一方、人が存在する場合に受ける快楽と苦痛には対称性があります。

個人的には、本書でベネターが提示する議論を退けることは簡単ではなく、賛否にかかわらず反出生主義を考える上で、ベネターの議論は 1 つの土台になりそうだと感じました。

安直な批判

ベネターの反出生主義への批判・反論は十分に可能だと思いますが、まずは安直な批判について考えてみます。

たとえば、反出生主義は今生きている人々の人生を否定しているという批判が考えられます。
しかし、ベネターの反出生主義はこれから新たに人を生み出すべきではないというものであり、すでに生まれてしまった人が今後の人生を続けることは否定していません。実際ベネターは、始めるに値する人生と続けるに値する人生という 2 つの価値判断を明確に区別しています。ただしベネターの議論では、すべての人生は続けるに値するとも言っておらず、自殺を否定するものでもないように思われるため、ここは留意が必要そうです。

また、子作りをするかどうかは人それぞれの価値観に基づくべきで、反出生主義という価値観を他人に押し付けるべきではないという批判も考えられます。
しかし、ベネターの反出生主義で問題にしているのは子作りをする人間(親)の利害ではなく、同意なしに存在させられてしまう人間(子)にとっての利害です。子作りによって害悪を被るのが親だけなのであれば、反出生主義という価値観を他人に押し付けるべきではないと言えるかもしれません。しかし、未来の子供が被る害悪を防ぐために他人の子作りを批判するのは、単なる価値観の押し付けとは区別されるべきでしょう。
極端な例ですが、価値観は人それぞれだから押し付けるな論法を使うと、自殺の倫理についての価値観は人それぞれであり、他人に迷惑をかけない限り自殺する人を止めるべきではないと言うことはできるかもしれません。しかし、殺人は倫理的に問題ないという価値観を持つ人が他人を殺すことまでを擁護するのは難しいでしょう。
なお、子作りの時点では未来の子供は存在せず、出生の同意を得ることは原理的に不可能です。出生に利害関係のある主体たる未来の子供が存在しないのだから、同意を得ずに出生することは倫理的に悪いことではないという方向の議論は可能かもしれません。ただ、ここまで来ると元の批判からはだいぶ離れてしまっているでしょう。

個人的な考え

本書を読む前から自分は以下のように考えていました。


親が子を生むのは子のためではなく親自身の都合だと思います。親は自分の都合で勝手に子を生んだ以上、その子の不幸を最小化するよう努力する義務がある一方で、子は親に対して先天的に何の義務も持たず、親は子から何かをしてもらう権利も先天的には持たないと思います。もちろん、子が、自分を産み育ててくれたことを親に感謝し、恩返しするというのは素晴らしいことです。そこは否定しませんが、それでもやはり、それは義務ではないと思うのです。

また、反出生主義的とは少し異なりますが、人類とその文明が少しでも長く、できれば永久に続いてほしいという欲求は自分にはほとんどありません。
今すぐ人類が絶滅してほしいという欲求はありませんし、今生きている人々とこれから生まれてくる人々のどちらもできるだけ幸福であってほしいとも思います。少なくとも、人類を絶滅させることは大量殺戮であり倫理的に最悪です。しかしそれと同時に、個人レベルの人権ではなく人類全体という尺度で考えたときに、人類が永く続いてほしいとも特に思わないということです。人類が今すぐ終わると嬉しいとはまったく思いませんが、特に残念でもないという感覚です。

地球はいずれ太陽に呑み込まれるのだろうし、仮にそれから逃れられたとしても宇宙自体がいずれ終わるでしょう。人類がどんなに足掻こうがいずれ宇宙と共に終わるのであれば、人類の終わりが多少早くなることにどれほど問題があるのか定かではありません。
もちろん、宇宙に関する研究・理解が進めばこの前提は崩れるかもしれません。しかし仮にそうなったとしても、やはり自分の感情的には、人類が永く続いてほしいという欲求は持てない気がします。

その一方で、故人や自分も含めこれまでに存在してしまった人間については、その人間が存在したという歴史的事実は残ってほしいという気持ちはあります。これは、そのような存在の記録を紙や HDD など人間的な尺度で永続させたいという話ではなく、世界から見て(?)、これらの人々が存在したという事実は残ってほしいという意味です。仮に、そのような事実が他者から一切認知されることがないとしてもです。


上記の感覚はベネターの反出生主義ほど強いものではありませんが、あまり衝突もしない気がします。そのため、反出生主義と、その帰結として人類絶滅を推奨するベネターの議論は、感情的に受け入れ難いところは少なかったです。
自分は反出生主義者ではなく、ベネターの議論が正しいかも分かりませんが、強い違和感なども感じませんでした。

反論の可能性

素人考えですが、ベネターの反出生主義への反論の可能性を考えてみます。

まずそもそも、人が存在しないことによる苦痛の不在は良いことだが快楽の不在は悪くはないという、快楽と苦痛の非対称性の議論がどこかで間違っている可能性はあり得ます。この議論でベネターが主張している理屈は理解できても腑に落ちない感覚を持つ人は少なくないでしょう。少なくとも、人が存在しないことによる快楽の不在が悪くはないという命題は、直感的に自明とは言い難いように思います。

また、ベネターは人生における苦痛を悪いものとして捉えすぎている可能性も考えられます。思考実験として、苦痛が一切ない人生を考えてみます。そのような人生はある種のユートピアかもしれませんが、ある種の生理的な気持ち悪さを感じる人も少なくないでしょう。あるいは、苦痛が一切ない人生は生きる価値がないと感じる人も少なくない気がします。つまり、快楽だけでなく苦痛があることも人生の豊かさや価値に寄与している可能性が考えられ、ここを突破口にベネターの議論に反論できるかもしれません。

シーナ・シフリンの議論

本書では、ベネター以外による反出生主義の議論も紹介されています。たとえばシーナ・シフリン(Seana Shiffrin)の議論は以下のようなものです。

A さんにとってのある害悪を避けるために、より小さな害悪を B さんが A さんの同意なしに A さんへ与える権利か義務はあるかもしれない。一方、A さんに純粋な利益を与えるとしても、どんな小さな害悪も B さんが A さんの同意なしに A さんへ与える権利はない。よって、ある人が子作りをすることで、その子供の人生に利益があるとしても、その子供は人生で何かしらの害悪も被ることがほぼ確実であり、その子供が生まれる前に存在させられることの同意を得ることもできないため、子作りはすべきでない。

シフリンの議論はベネターのものよりは限定的な(弱い)主張ですが、こちらの方が多くの人にとって直感的かもしれません。

子作りしない人にとっての意味

ベネターの議論が正しいかどうかは分かりません。しかしベネターの反出生主義は、子作りをしない、またはできない人にとって意味のあるものになるかもしれません。

反出生主義者ではないものの、何らかの理由で子作りをしたいとは考えていない、またはできない人が、「子作りはすべきである」という価値観を持つ社会や親族などからの圧力を重荷に感じている場合、ベネターの反出生主義は 1 つの支えになるかもしれません。また、子作りしない(できない)ことを責めてくる周囲に対する理論武装として役立つかもしれません。

非差別性

ベネターの反出生主義の対象は人間に限りません。人間以外の動物なども道徳的な考慮対象として考えられており、一般的な人権の概念よりも道徳的主体の射程が広く、差別が少ないと言えます。
奴隷制や人種差別政策の廃止などから分かるように、歴史上、人権の対象者は広がってきました。さらに、動物愛護法などのように、道徳的権利を持つ主体が人間以外の存在にも拡大しています(animal rights)。この傾向が今後も続くと、ある面ではベネターの議論に近づいていくのかもしれません。

危うさ

ベネターの反出生主義の議論には危うさも感じます。

自分の理解する限り、ベネターの議論では、人生における害悪の度合いには個人差があり、かつ、世界から害悪を少しでも取り除くべきと主張しているようにも見えます。ベネター自身の意図はともかく、ここから次のような含意が読み取られる可能性があります。

  • 特に重い障害が遺伝・発現する可能性が高いことを分かっていながらの子作りは、平均的な子作りより倫理的に悪い
  • 特に重い障害を持つ人は、平均的な人より人生を続ける価値が低い

このような考えは優生思想と親和性が高く、その点では非常に危うさを感じます。

おわりに

ベネターが提唱する快楽と苦痛の非対称性の議論は反出生主義の論拠になっているのと同時に、デレク・パーフィットの非同一性問題への回答という面もあるようです。こちらも気になるのでパーフィットの本も読んでみたいと思いました。

マーターズ 4K デジタルリマスター

ネタバレあり

現在上映中のパスカル・ロジェ監督『マーターズ 4K デジタルリマスター』(2008 年)を先日観てきました。
ディスクを入手できていないこともあり本作を観るのは久々でしたが、やはり非常に良かったです。

本作は幼少期のリュシーとアンナを描く導入から始まります。その後すぐ 15 年後の場面に移り、リュシーが復讐のためにある一家を惨殺する場面になりますが、ここの勢いとスピード感には凄まじいものがあります。

この家の地下室をアンナが発見してからは映画のトーンが一変しますが、この落差にも驚かされます。そしてその後はカルト教団によるアンナへの拷問の場面が続きます。映画全体は 100 分と比較的短いものの前半のスピード感との落差もあり、アンナへの拷問の場面はかなり長く感じられ、拷問が永遠に続くかのようです。

被害者の体験を目的とした加害

ホラー作品などでは、殺人鬼などが他人を拷問・殺害するなどの加害描写がよくあります。
本作でもカルト教団の人間によるアンナへの加害描写があります。本作のカルト教団は、苦痛を受けた人間が死の間際に超越的な境地へと至り、神秘体験をすることがあると考えています。そしてそのような殉教者(martyrs)を人工的に生み出すために、誘拐してきた人々に苦痛という体験を与えています。

単に殺人鬼が殺人を楽しむスラッシャーなどもそれはそれで良いものです(もちろん道徳的な意味ではありません)。しかし本作のように、加害者が被害者に苦痛を体験させることを目的として危害を加えるという描写の方がより優れている、というか怖い気がします。

本作は露悪的なだけの駄作なのか?

本作は露悪的なだけで駄作であるという見方もあるかもしれません。

大前提として、そもそも露悪的なだけの作品を作る人がいてもいいし、それを楽しむ人もいていいと考えています。そして、間違いなく自分にも露悪的なものを好む面があります。

この前提を踏まえた上で、本作が単に露悪的なだけかというと、そうは思いません。
世界(社会)全体または世界の少なくない部分に邪悪・醜悪な面はあるでしょう。フィクション的な誇張があるにせよ、そのような世界の邪悪な面を過剰に露出させているという点で本作は露悪的かもしれません。しかし、そのような邪悪でどうしようもない世界の中でも、プライベートな個人同士の関係では愛や友情など美しいものが存在するということもまた真実でしょう。本作におけるリュシーとアンナがそうであるように。

最後にアンナは何を言ったのか?

本作最大の謎は、最後にアンナはマドモアゼルに何を言ったのかという点でしょう。

自分の解釈ではここでアンナが言った内容は、それを知ってしまうと正気を保てなくなるようなこの世界の恐ろしい真実です。
ここで言う「世界」とはいわゆる「この世」ではなく、「この世(現世)」と「あの世(来世)」、そして過去・現在・未来すべてを含む、この世界(宇宙)の時空間全体を指しています。
つまり、マドモアゼルはアンナに「真実」を告げられたことで宇宙的恐怖に駆られて正気(ミーム的には SAN 値)を失い自殺したということです。そしてこれは典型的なクトゥルフ神話の展開でもあります。

ちなみに、同じくロジェ監督の映画『ゴーストランドの惨劇』(2018 年)には、クトゥルフ神話の生みの親 H・P・ラヴクラフトが登場しますね。

www.amazon.co.jp

おわりに

『マーターズ 4K デジタルリマスター』は現在上映中なので、ぜひ観に行ってみてください。
そして何より、リマスターを機に Blu-ray の再販を強く希望します…!

synca.jp

【種明かし】カードマジック「Do as I Do」の解説書を販売します

カードマジック「Do as I Do」の解説書を販売します。

haru-52.booth.pm

デック 2 組を使った古典的な Do as I Do というマジックについて、個人的な手法や演出などを解説しています。Do as I Do は初歩的ながら非常に強烈な手順です。しかし、初心者向けの簡単な解説などはあるものの、中上級者向けの詳細な解説はあまり見かけません。そこで、本書ではこの手順の効果的な演じ方について、テーブルを使うものと使わないものの 2 種類を詳細に解説します。さらに、この手順の原理をそのままにレギュラーデック 1 組だけで演じる手順があるので、その資料も紹介しています(本書ではこの資料名などを紹介していますが、アイデアの具体的な中身は解説していません。ちなみに、長谷和幸氏の「セレンディピティ」ではありません)。

基本的には既存の手法の組み合わせであり手法単体で目新しいものはありませんが、このマジックを演じる上で役立つ情報を盛り込んでいます。

※ PDF A4 8 ページ

現象

演者と観客がデックを 1 組ずつ持ち、演者は観客に演者の動きを真似てもらうように言います。演者と観客が同じようにデックを混ぜ、それぞれ 1 枚のカードを選んで覚え、再度デックをよく混ぜます。最後にお互いのカードを確認すると、選んだカードが一致していることが分かります。

条件

  • 道具:裏模様の色や絵柄が異なるレギュラーデック 2 組、または、レギュラーデック 1 組
  • 準備:不要
  • テーブル:不要、または、必要
  • 最小観客人数:1 人

ライセンス

Magic Lecture License v2.0.0

haru52.com

Out of Sight-Out of Mind 改案の解説書の新バージョンを公開しました

以前から販売している Out of Sight-Out of Mind というカードマジックの改案の解説書について、新しいバージョン v2 を公開しました。
v1 と比べてハンドリングや台詞などを改善し、全体的な文章や体裁も微調整しています。

以前にご購入いただいた方も BOOTH の購入履歴や商品ページから最新版をダウンロードできるはずなので、ぜひご利用いただければと思います。
万が一、ダウンロードできないなどあればご連絡お願いいたします。

haru-52.booth.pm


最高のカード当て、マインドリーディングの 1 つである Out of Sight-Out of Mind の改案です。原案の良さを最大限に活かしつつ、弱点を改善しています。
※ PDF A4 9 ページ

現象

観客にデックをよく調べて混ぜてもらいます。演者は観客にカードを見せていき、観客は 1 枚のカードを見て覚えます。観客の覚えたカードがデックのどこにあるか観客自身も分からない状況で、そのカードを演者は探し当ててしまいます。

条件

  • 道具
    • レギュラーデック 1 組
  • 準備:不要
  • テーブル:不要
  • 最小観客人数:1 人

ライセンス

Magic Lecture License v2.0.0

haru52.com

市場を創る(ジョン・マクミラン)

市場をうまく機能させるプラットフォームは,次の 5 つの要素を備えている.情報が円滑に流れること.財産権が保護されていること.人々が約束を守ると信頼できること.第三者に対する副次的影響が抑えられていること.そして競争が促進されていることである.

(p. vi)

ジョン・マクミラン著『新版 市場を創る バザールからネット取引まで』(Reinventing the Bazaar)を読みました。

本書は世界中の市場の豊富な事例を通して現代経済学を幅広く学べる入門書です。
アールスメール花市場(オランダ)に始まり、ガーナのマコラマーケット、築地市場、eBay など、洋の東西やオフライン・オンラインなどを問わず、数多くの市場が紹介されます。
このように本書は経済学という観点だけでなく、近現代における経済活動の人類史といった観点でも面白い読み物となっています。

市場というと、弱肉強食で格差を拡大する悪の装置というイメージを持つ人も恐らく少なくないでしょうし、そのような面があることは間違いではないでしょう。しかし、市場(バザール)は人々が活動していけば自然に発生しますし、健全な市場には人々の活気や創造性があることも忘れてはならないでしょう。

本書で解説される経済学は古典的な需要・供給曲線的な理論だけでなく、ゲーム理論を取り入れた現代的で実践的な経済学となっています。
しかも本書では経済理論の解説に数式が一切登場しません。あくまで具体的な事例を基に理論の本質を学べる構成になっています。

さて、本書の主張を要約すると次のようになります。

市場を一切用いない計画経済(社会主義)と、完全に市場に任せる放任主義のどちらでも経済はうまく機能しない。ボトムアップによる何らかのルールや規制が自然発生的に生まれ、それにより市場がうまく機能することもあるが、このような「非公式」のルールや規制には限界がある。よって、政府など中央集権的な組織が市場に介入し、立法などによりルールや規制を設けることが必要である。そして、どのようなルールや規制をどの程度の強さで設けるかという設計が非常に重要であり、これが市場を創ること(マーケットデザイン)に他ならない。

そして市場をうまく設計するには、最初に引用した 5 つの要素が必要ということになります。
その中でも特に強調されていると感じたのは情報の重要性です。つまり、市場の参加者それぞれが、信頼できる情報を低コストで入手できることが重要です。情報を入手するコストや入手した情報の信頼性を検証するコストが大きいと、スムーズな取引ができず、市場がうまく機能しません。言い換えると、市場における取引費用を低く抑えることが重要ということになります。

市場における情報の流通と深い関係にあるのが IT/コンピューター技術です。
インターネットの普及により、eBay のようにグローバル、高速、低コストな市場が創出されました。
また、コンピューターの普及により、大量のパラメーターを基に複雑な計算を行うオークションなども可能になりました。そして、このようなオークションをオンライン化することさえ可能です。

市場によって成り立つ資本主義の対極に、計画経済によって成り立つ社会主義があります。そして、計画経済がうまくいかない理由にも情報が深く関係します。
中央集権的な計画経済において、仮に中央指導部に悪意がなく、腐敗しておらず、非常に有能であったとしても、末端の現場に分散している情報や知識を中央が集約・統合し、人々の需要を予測することは非常に困難です。同様に、中央の官僚等が各企業の生産性を評価することも非常に困難でしょう。市場であれば、質の低い商品は自然に売れなくなり価格が調整されますが、品質なども踏まえた生産性について、計画経済下の官僚が妥当な評価を下すことは非常に難しいでしょう。
さらに実際には、社会主義・計画経済がうまく機能するのはより困難であると考えられます。計画経済では中央組織が強い権限を持つ必要がありますが、中央指導部の腐敗や官僚への賄賂などが構造的に横行しやすいと考えられます。よって、そもそもが困難な計画経済はより厳しいものとなるでしょう。

さて、市場というのは自由競争による価格決定ゲームとも捉えられ、オークションも市場の一種といえます。本書ではオークションについてもいくつかの事例が紹介されています。

その中でも特に、アメリカの電波周波数帯オークションで使われた同時上昇オークションについては著者自身が関わっていたということもあり、詳細に解説されています。これは複数のオークション対象商品の価値が相互に依存しており、独立性が低い場合に有効な手法という感じでした。

また、封印入札の一種であるヴィックリー・オークション(第二価格オークション)も紹介されます。本書では軽く触れていただけですが、以前に読んだ『マスタリング・イーサリアム』ではこのオークションがより具体的に紹介されていました。このオークションの基本的な特徴は、提示された最高額でなく 2 位の価格を使うことによるゲーム理論的な最適化です。それだけでなく、オークションの各参加者が入札価格を封印し、後でまとめて開示できるため、ブロックチェーンのように秘密鍵以外のすべてが公開されているプラットフォームとの相性も良いオークションといえます。

シグナリングの話も自分は知らなかったので新しい視点を得られました。企業が有名人などを雇い、本質的にはあまり意味のなさそうな広告を打つのもシグナリングとして捉えると意味が見えてきます。そして、自然界の動物についてのアナロジーも面白いです。単純な機能面では不合理で奇妙に見える動物の進化も、シグナリングとして考えると理解できます。もしかすると、ハイブランドの服飾品を身に付ける人の心理もシグナリングで説明できる面があるかもしれません。

アメリカの医療インターン労働市場(病院と学生の関係)における青田買い的な引き抜き合戦をコンピューターによるマッチングシステムで(部分的に)解決した事例は、日本の就活を考える上でも参考になりそうです。

また、近年発展著しい AI (Artificial Intelligence) と市場経済には類似性があるように思います。
市場経済では、基本的に中央集権的組織が細部まで制御せず、市場に参加する末端の人々それぞれが自己利益を最大化しようと合理的に動きます。その結果、市場全体で見ると資源が効率的に流れ、社会全体の生産性が上がっていきます。このようなボトムアップ的な改善は、近年飛躍的な進歩を遂げた AI の学習方法にも通ずるところがあるように思います。
ディープラーニングおよびその延長にある生成 AI(LLM)の仕組みは、天才がトップダウンで考えた天才的な AI アルゴリズム(プログラム)そのものではありません。AI の実体はモデルであり、これは膨大な数値(パラメーター)を羅列した行列表現です。そして、この膨大なパラメーターを学習させる枠組み(Transformer、アテンション機構、バックプロパゲーション、勾配降下法など)までを人間が考え、その枠組みの上で膨大な計算資源(半導体)、電気、データ、時間を投入し、コンピューター自身に自動学習させます。これによりボトムアップ的にモデルのパラメーターが最適化されていき、どんな天才でも作れなかったほどに賢い AI が生まれました。
賢い中央がトップダウンで制御するのではなく、個々の要素の単純な働きの集合によりボトムアップで全体として非常に賢く振る舞うというのは、AI と市場で共通しているように感じます。これはまさに複雑系の世界ともいえるでしょう。

全体的に、本書は公平な立場で書かれているように思います。ただ、原著の出版年 2002 年はリーマン・ショック(金融危機)前であり、ネオリベラリズム(新自由主義)が力を持っていたように思います。偏っているとまでは思いませんが、本書の主張はネオリベラリズムとある程度は親和性があるようにも感じます。仮にそうだとして良くないとも思いませんが、この辺りは留意してもよさそうです。

本書では自然環境などいわゆる「社会的共通資本」に対する負の外部性(取引に伴うネガティブな副作用)や経済格差などの問題にも触れており、特に環境問題については排出権取引という具体的な解決策も紹介されます。しかし、現実社会でこの辺りの問題が十分に解決されているとは思えず、現代経済理論の限界も感じます。もちろん、経済理論に基づく排出権取引などを活用しなかった他の世界線よりマシだったということなのかもしれませんが、いずれにせよ問題は山積しています。

経済学では資源の分配などの効率性について論じることはできますが、どの程度まで富を再分配すべきかのような問題には回答できません。この辺りは主に人々の価値観に依存するため、政治哲学や倫理の領域です。
言い換えると、絶対的な貧困が増大するとしても平等を重視して共産主義を是とする主張や、経済的な豊かさを損なうとしても自由を重視してリバタリアニズムを是とする主張は、価値観や政治哲学などの観点からは否定することが困難です。しかし、たとえば政府を小さくすればするほど経済成長するといった経済的な理由でリバタリアニズムを肯定するとしたら、それは根拠が誤っている、ということを経済学的観点から指摘することはあり得るでしょう。

本書で述べられているように、政府などが市場を適切に設計し、市場/資本主義を道具としてうまく利用できれば人類に多大な利益をもたらすでしょう。しかし問題は、人類が本当にそのように市場をうまく設計・制御できるのだろうか、という点です。あるいは、人類は市場をうまく制御できないが、それでも原理主義的な社会主義やリバタリアニズムなどよりは総合的にマシである、というのが真実なのかもしれません。だとすると夢のない話ではありますが…。

ロシアの改革はひどく不人気だった.皮肉なジョークが広まった.「共産主義者が共産主義について語ったことはすべて完全にまったくの嘘だった.しかし残念ながら,共産主義者が資本主義について言ったことはすべて本当だった.」

(p. 286)